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Chocolate Drunk
むせ返るるような、甘い香りがした。
僕は今しがたロンドンから日本の自宅に帰ってきたところで、僕が今日帰ってくることは家の
者以外には知らせていない。僕の部屋へは、僕以外ではばあやが掃除に入るくらいで、彼女
は僕が勧めない限り、僕の部屋で水ですら口にしない。
なのに、部屋に充満するこの甘い香りは何だというのだろう。
その正体をつかむため・・・と言っても、この香りがチョコレート特有のつんとする甘い香りなの
はわかっているので、この香りが僕の部屋に溢れている意図を明らかにするため、香りが強く
なっていく方へ向かう。
この香りは、室内にある扉の向こう、僕の寝室からしている。
寝室へと続く扉は、いまは僕を誘うようにヒラヒラと開いていた。重厚な造りのはずの扉が今
日は何故か軽く見えるのは、この香りのせいだろうか。
おおよその予想をしながらも、その可能性はまずないはずなので、あまり期待をしすぎないよ
うにしたのだけれど。
「なんでここに居るんですか・・・」
珍しく、僕の期待は僕の望む形をとってそこに居た。
僕のベッドで、枕とクッションとチョコレートの包み紙を方々に散らしながら寝そべって、瞳だ
けで僕の入室を認めた彼。
「当ててみれば?」
チョコレートの香りのする甘い息で、黒羽君がニヤリと笑う。
何故、いるんだろう、ここに。
どうやって入ったかというのは、相手が彼の場合、考えるだけ時間の無駄だ。僕がどんなに
考えたところで、僕が予測してみせた方法か、はたまた、まったく想像もつかない方法かでもっ
て、どうせ彼は侵入を遂げるのだから。
だから、僕が考えるべきなのは方法ではない。黒羽君がいま、僕の部屋に居る“理由”。
「もしかして、君は」
「ぶっぶー、残念でした☆」
「ま、まだ何も言ってません!」
先ほど抱いた僕の期待が、珍しくその通りになっていたのだから、彼がここに居る理由も、い
っそ僕の期待通りになってしまえと、推理というより本当にただの期待を口にしようとすれば、
ケラケラと笑う声に遮られてしまった。
「遅いよ、お前」
お腹を押さえて、顔を反らせて笑うものだから、髪がシーツの上でパサパサと揺れている。僕
の、色のやや抜けた茶色の髪と違う、光の反射によって黒にも緑にも見える、艶やかな色の髪
だ。その髪のすぐ傍にもチョコレートの紙はあって、黒羽君が笑う度にカサカサと微かな音をた
てていた。包み紙にほんの少し付いているチョコレートが、黒羽君の髪に付いてしまわないだ
ろうかという僕の心配をよそに、彼はまだ笑っている。
よく見てみれば、顔も首も手も、うっすらと赤い。笑う表情も、いつもの彼より更に幼く見えた。
これは・・・。
「・・・黒羽君。酔ってますね?」
「なぁに言ってんだよ、白馬。お酒はハタチを過ぎてからなんだぞ。俺が飲むわけねぇだろ」
そう言って、傍らにあったクッションを軸に寝返りをうって、そのままうつ伏せの状態になって
そのクッションの上に顔を乗せる。いかにも眠たそうな、トロンとした目で僕をからかう様に見て
いる。
この状態の彼を酔っていないと言うのなら、僕はもうどうしていいのかわからない。酔っている
とわかっていても、僕のベッドで、こんな状態でいる黒羽君が悪いのだと、己の理性に蓋をして
彼に触れてしまいそうなのに。
まったく、この部屋の、きつい、甘いチョコレートの香りが恨めしい。
「飲んだ、とは言ってません」
チョコレートボンボンに含まれているブランデーでも、酔ってしまうなんてね。いったい、どれだ
け食べて、そうなったのだろう。
「それ、食わせろ」
黒羽君が目線だけで、面倒くさげにサイドテーブルの上にあるチョコレートを示した。僕に、そ
れを包み紙から出して、口元まで運べと言うのか。
こうなってしまったら、もう彼の好きなようになれば良い。いくらなんでもボンボンのアルコール
で酔いつぶれることはないだろうし。
せめて起き上がって欲しかったけれど、起き上がったところで、きっとどうせ、酔いにまかせ
てゆらゆらと、今度は髪だけでなく体ごと揺れているのだろう。そうすると、口元まで運んでやっ
ても、たぶんうまく口には入らない。だから寝転んだままでもいいかと思って、包み紙を開く。
ベッドに腰掛けて、黒羽君の口元まで持っていった。チョコレートが彼の口に触れようという
時、触れた時、緊張でチョコレートを落としてしまいそうになったけれども、何とか彼の望むよう
にできた。まったく、大儀だ。
「まったく。何故、こんなことを・・・」
「それ」
「はい?」
チョコレートをまだ口に含んでいたのだろう。少し舌足らずになりながら、ぽそりと、黒羽君が
言う。
「それ、久しぶりに聞いた」
「・・・・・・・・・。」
どうしようか。
僕は黒羽君には、僕が日本で探偵の仕事をしていた当初によく口にしていたそれを、言った
ことはない。・・・キッドになら、言ったけれど。
そんな、自分がキッドだと認めてしまうようなことを、いくら酔っているとはいえ簡単に言ってし
まえるなんて。
頭の中で警鐘が鳴っている気がした。ゆっくりと起き上がって、僕をみて微笑む彼の口を、閉
じてやるべきではないか。これ以上、大事なことをしゃべってしまう前に。
「青子が」
「え」
中森さんが?
もっと、と餌を待つ雛鳥のように口を開けて、僕からチョコレートを強請りながら出した彼女の
名前に、何か僕の予想のつかない方へ話が進む予感だけがした。
黒羽君が瞳を閉じているものだから、僕は彼の望むまま、再びチョコレートを口元に持ってい
ってやる。仕方がない。その口を閉じて味わう、チョコレートの香りをさせる彼に見とれるしかな
い。
「青子と出掛けたときに、あいつがお前の真似してそれを言ってよー、俺、それで初めてお前
のこと知ったんだ」
今度はきちんと飲み込んでから言ったため、先ほどよりは、はっきりとした声になっていた。
既にまわっている酔いのためか、やはりいつもの彼よりは、ぼんやりとした、いまにも眠ってし
まいそうな感じではあったけれど。
「いまも、犯人に言ってんの?」
「いえ、いまは・・・それを探すのも、探偵の仕事だと思っているので」
「ふぅん」
そうだ。最後にそれを言ったのは雪の降る夜だった。
「なあ、いままでそれを聞いて、答えた奴っているか?」
小首を傾げて、幼い仕草で僕の鼓動を早まらせている彼は、けれど僕を見てはいない。目線
は、下へ。おそらく、僕の手に。まだこの手からチョコレートが欲しいのだろうか。
「まあ、何人かは。言わなかった人もいますけど」
サイドテーブルへと伸ばそうとした手を、何故か彼の手が止める。
「理由を知って、“それなら仕方ない”って、思えたことってある?」
僕の手を、少しの間しげしげと見つめて、黒羽君はその手を、彼の髪の上に乗せた。黒羽君
の方から、僕の手のひらの下に、潜り込んで来たと言った方が、近いかもしれない。
「・・・いえ」
僕の手のひらに黒羽君が懐くので、おそらくこの状況で一番相応しいだろう行動を・・・つま
り、彼の髪を撫でることにする。
心配していたチョコレートは髪にまでは付いておらず、柔らかな感触が心地良かった。僕が
搾り出そうとしている言葉が喉につかえる苦しさを、より強くさせるような柔らかさだった。
「たとえどんなに辛い理由があったとしても、その苦しみを乗り越えて前に進む姿こそ、素晴
らしいと、思うので・・・」
そうだ。犯人からどんな動機を聞いたって、僕は必ず最後にはそう思う。
白い姿を思い浮かべながら、まるで自分が教会で懺悔しているかのような気持ちになった。
ここで嘘を言う方が彼を傷つけるからといって、前に進むために怪盗を継いだ彼に僕はなん
て酷なことを言っているのだろうか。胸が苦しい。
「お前のそういうところ、俺、結構好きだ」
僕の手が影になって、黒羽君がどういう表情をしているのかはわからないけれど、ふ、と息を
吐く音がした。泣かせてしまっただろうか。
けれど、黒羽君の顔を見ようとどかそうとした手は、当の黒羽君自身に邪魔をされて、僕は
仕方なく彼を撫で続ける羽目になった。
「もうちょっと撫でてろ」
「黒羽君」
「キッドも」
キッドも?
僕が息を呑んだのがわかったのだろうか、黒羽君の口元は笑みを作り、いつも黒羽君がキ
ッドに関して何か言うときの常套句を口にする。
「俺はキッドのことなんて何にも知らねぇけど」
もぞりと、僕の手に髪を擦り付けるかのように動かれて、僕は黒羽君の口から出る、この先
の言葉を冷静に聞ける自信がなくなりかけていたのだけれど。
「絶対に、泥棒なんてやり方でないと果たせなかったことなんて、なかったと思うんだよな」
それを聞いて、まだ僕の手に懐きながら話す黒羽君が、僕の手に誰を重ねているかわかり、
思考は一息にクリアになった。彼がここで言うキッドの実態。いまは、いない・・・。
「・・・キッド贔屓の君にしては、不思議なことを言いますね。彼のファンは止めたのかい?」
「俺が?止めるわけねえじゃん。だってキッドだぜ?いつだって格好良くって、マジックの腕も
超一流で!大好きに決まってんじゃん!」
そうだろうね。君の答えは、NOだ。黒羽君が彼の父親を誰より慕っているのかは、付き合い
のそう長くない僕でもわかる。まあ、僕の場合、付き合いの時間がどうとかいうより、僕が彼に
抱いている感情の果てに気づかされたこともあるけれど。
彼にとって、父親である黒羽盗一は絶対だ。・・・その人が怪盗だったと知って、君はどれだけ
揺らいだろうね。
『俺はキッドのことなんて何にも知らねぇけど』
おそらく本心だろう、彼の。キッドの謎を解きたくて追う探偵と、黒羽君と、そこにどれだけの
違いがあるんだろう。
それなら、僕を利用すればいいのに。一人きりで立ち向かわずに、僕を。
・・・・・・・・・君が。
「君が知りたいと言うのなら、僕が解明してみせようか」
黒羽君を撫でていた手を、彼の頬に添えて、何かしらの結果を期待して言った。
「18年前、怪盗が何を思って現われたのか」
一瞬、幼い表情で僕の言葉を受けた彼が、ケラケラと笑う。その笑みで、僕はほんの少しの
間だったけれど、チョコレートの香りを忘れていたことに気づいた。
「・・・ばかだなぁ」
僕の手をするりと抜けて、黒羽君が言う。
「そんなに知りたきゃ、自分でどうにかするよ」
どうにか。
「それは例えば、白い衣装に身を包んで、夜に空を飛ぶことですか」
「さあ?」
『それを探すのが君の仕事じゃないのかな?』
今日はあの雪の日の焼き直しか。
黒羽君は僕のベッドに散らばっていたチョコレートの包み紙を雪のように舞わせて、あっとい
う間に扉の前まで移動していた。酔った足取りのくせに、あっという間のことだった。僕は慌て
て、彼の後を追う。
「もう帰るな。突然来て悪かったよ」
「送ります」
「いらないよ。帰ったばっかで疲れてるだろ」
「こんな状態の君を一人では帰せませんよ」
誰に攫われてしまうか、わかったものではない。ただでさえ、彼の近所には僕の他にもう一
人、彼に心奪われている探偵がいるというのに。
「ほら」
「え?」
「まだ残ってたから、やる」
黒羽君から手渡されたのは、チョコレートだった。
受け取った瞬間に、一つだけだったそれはポンと音をたて、僕の手のひらでいくつにも増えた
ものだから、そちらに目を奪われる。案の定、黒羽君はその一瞬をついて居なくなってしまっ
た。
「本当に、何のために来たんですか」
揺らいだ自分を、酔いにまかせて吐き出してしまいたかったのだろうか。
もらったチョコレートの包み紙をクルクルと剥がして、口に入れる。
「!?」
おかしい。
ただ、甘い。
「これは、ボンボンじゃない!」
けれど。
僕がいま剥がした包み紙は、ベッドの上で散らばっているのと確かに同じもので。
それなら、同じものを食べていた彼は・・・?
そして、包み紙に書かれた文字。
『 For My Dear Detective
Happy Birthday !!
Now, let's play hide-and-seek .
I'll give you what you want to know. Only now ! 』
「タイムリミットは、あくまで君が酔っていることにできる、いまだけですか」
彼を探しに、僕は扉の向こうに跳び出した。


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